序章


 奥深い山々の中でも特に切り立った断崖、その狭間にポッカリと口を空けた洞穴の奥から下卑(げび)た薄ら笑いが洩れていた。
 笑い声の主は腰に薄汚い布を巻いただけの格好で、筋骨隆々たる褐色の巨躯(きょく)をさらけ出していた。異様なことにその頭部は人間のものではなく、大きく彎曲(わんきょく)した二本の角まで生えている。
 牛頭人身の醜悪な魔物、ミノタウロスだ。

 その傍らには鎖に繋がれた半裸の娘が怯えた瞳でミノタウロスの巨体を見上げている。娘の名はミーナ、近隣の村からこの凶悪な怪物への生贄として捧げられた憐れな娘である。

 ミノタウロスがいつからこの地に住みついたか定かではないが、半年程前に山奥の小村に現れたこの怪物は、定期的に生贄を差し出すことを村人に要求した。怪物はそれを拒否すれば村人を皆殺しにすることを付け加え、見せしめに家畜を屠(ほふ)ると山の中へと姿を消した。

 村人達は困惑し、悩んだ末に生贄を捧げることを了承した。もちろんそれと同時に怪物を賞金首として冒険者ギルドに手配することも忘れなかった。
 それから数多(あまた)の賞金稼ぎ(バウンティハンター)や腕自慢の冒険者が金と名声目当てに怪物に挑んだが、帰ってきた者は誰一人としていない。

「人間とは怖ろしいモノだ……」

 その邪悪な外見よりも遥かに高い知能を持つミノタウロスは、独特の発音で人語を操ることができた。

「自分の為なら他人を平気で犠牲にする……」

 ミノタウロスは荒い鼻息を吐きながら、身を屈めてミーナに顔を近づけた。そのあまりの醜悪さにミーナは思わず顔を背けた。

「もうすぐ新しい生贄がやってくる…お前は実に罪深きムスメだ……」
 ミノタウロスのだらしなく開いた口元から唾液が滴り落ちる。


「そこまでだ!」

 鋭い声が広い空洞に木霊(こだま)した。
ミノタウロスとミーナの視線が一点に注(そそ)がれる。声の主は真紅の鎧に身を固め、紺碧(こんぺき)のマントに身を包んだ娘だった。
 娘は抜き身の剣を片手に空洞の中央に踊り出た。

「あたしは賞金稼ぎのエリカ、もう大丈夫だよ!」

 エリカと名乗る賞金稼ぎはミーナにそう告げるとミノタウロスに向き直った。

「お前はあたしが倒す、覚悟しな!」

 エリカは自分の倍以上ある怪物を前にしても物怖(ものお)じすることなく強気に言い放った。

「身のほど知らずの人間が…ん?二匹か……」

 ミノタウロスはエリカより少し遅れてこの場に現れた娘に視線を向けた。その娘は着衣から理性神(ラムリック)の神官であることが見て取れた。

「グフフ…三匹の予定だったがまあいい…久し振りの若いムスメだ……」

 下卑た笑いが再び洞穴に木霊した。

「ユリア、あの娘を安全な場所へ、こいつはあたし一人で充分だ」

「はい」

 ユリアと呼ばれたその娘は、ミーナの元に駆け寄った。

「オレを倒せると思っているのか?」

 ミノタウロスは壁に立て掛けてあった巨大な戦斧を手に取とると、無謀な賞金稼ぎに鋭い眼光を浴びせた。

「ふん、笑ってられるのも今のうちさ!」

「では…まずは貴様から喰らってやる……」

 ミノタウロスは大きく斧を振りかざすとエリカ目掛けて振り下ろした。エリカは横に跳んでそれをかわすと、そのままミノタウロスの懐(ふところ)に飛び込んで一撃を浴びせた。

「小娘にしてはなかなかヤルな…だが……」

 ミノタウロスはその巨躯からは想像できないほど俊敏な動作で斧を横薙ぎに払った。エリカは咄嗟に身を伏せて事なきを得たが、それが一瞬でも遅れていたら首が飛んでいただろう。
 エリカは一度間合いを取って呼吸を整えた。

「うそ…効いてないの!?」

 ミノタウロスの胸元には一筋の赤い線が走っていたが、その部厚い胸板を切り裂くには至っていなかった。しかも、傷口は見る見るうちに再生していく。このミノタウロスは獣化人(ライカンスロープ)並の再生力を備えているのだ。

「化け物め!」

 エリカは両手で剣を握り直し、再びミノタウロスに向かって駆けた。
 ミノタウロスの渾身の一撃がエリカの頭目掛けて振り下ろされる。だが、エリカはその攻撃を見切り、振り下ろされた斧を踏み台にしてミノタウロスの頭上高く跳び上がっていた。

「これで終わりだ!」

 エリカがミノタウロスの頭に剣を振り下ろそうとした瞬間、激しい衝撃がエリカを襲った。ミノタウロスの左腕がエリカを横に払ったのだ。
 エリカはそのままはじ弾き飛ばされて空洞の壁に激突した。

「エリカ様!」

 ミーナを保護していたユリアがエリカの元に駆け寄る。
 エリカは壁に叩き付けられたショックで軽い呼吸困難に陥っていたが、鎧が衝撃を軽減したため骨や内臓には損傷がないようだ。

 ユリアはすぐに癒しの呪文を紡ぎ始めた。

「グフフ…死ね!」

 呪文が完成する前にユリアの頭上から笑い声が響いた。
 振り返ったユリアの眼に飛び込んできたのは、大きく斧を振りかざしたミノタウロスの姿だった。

「ハッ!」

 ユリアは咄嗟に掌(てのひら)から気弾を放った。"フォース"と呼ばれるその魔法は、掌に気を集中させ、衝撃波に変えて放つという神聖魔法の一種である。
 気弾はミノタウロスの顔面に直撃したが、気を集中する時間が短かったことと、ミノタウロスの打たれ強さが重なり、怪物を二、三歩後退させるにとどまった。

「ユリア…下がってな……」

 ミノタウロスが不意を突かれて狼狽(うろた)えている隙に、エリカは剣を拾って立ち上がっていた。エリカは平静を装(よそお)っているものの、その息遣いは荒かった。
 対するミノタウロスはすでに胸の傷も塞がり、万全という状態だ。

「まだヤル気か?大人しくしていれば一瞬で済むモノを……」

「言っただろ、お前はあたしが倒すって!」

 エリカは痛む身体に無理を強いて気丈に言ってのけたものの、状況が極めて不利だということに変わりはなかった。

 

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